お葬式のこと。昔の風習

子供の頃、

おじいちゃんや大人たちが、

「葬式の時の茶碗を割る音が、何とも言えん悲しいなぁ〜。」

という会話をしていたことがありました。

子供ながらに、

お葬式を見たこともないから、とても興味があり気になっていました。

ひと昔前までは、

誰かが亡くなると、地域の人たちが集まり

割烹着姿のおばちゃん達がみんな集まって公民館で料理をつくり

親戚中で家を片付け、ふすまを外して居間を広くし、座布団をたくさん用意し

自宅で通夜・お葬式をし、故人を見送っていました。

人は誰もみんな終わる時がきて

それが当たり前であり、ごくごく自然なことであるのだけど

時代が変わり

祖父母は別居、家族はどんどん小さくなり、近所付き合いもなく

お葬式は家族葬。

そんな時代だから、

当たり前に誰もに訪れる「死」に向き合う機会が

かなり減ったように思う。

そのため、

人が老いて死んでいくのが当然で自然なことにも関わらず

見たことも、お葬式を経験したこともないから

親族が亡くなると、必要以上に悲しみ、途方に暮れる人も少なくないと思う。

死は悲しいことだけど、

身近に当たり前にあるという、それを意識するだけで

生き方も変わる気がする。

お茶碗の話ですが、

お葬式が終わり、

自宅から霊柩車が出棺する際、

クラクションが鳴り響いたあと、

玄関前で、故人が使用していたお茶碗を割ります。

大人になって、何度か見ましたが、

それは本当に、心を切り裂くような悲しい音です。

(さまよって帰って来ないように。)という意味が込められているんだそうです。

何だかふと、そんな昔のことを思い出し、

こんな風に昔ながらの日本の色んな風習が、時代によって消えて行くのかぁ。

と考えると、何だか寂しい気がした。

自分が子供の頃は、

毎年冬になると、ひいおばあちゃんがストーブの横で

1日中「わらぞうり」をつくるお仕事をしていた。

近所のおばあさん達も、同じようにみんなわらぞうりをつくっていた。

今どき、誰もわらぞうりを履かないのに

何に使うんだろう。と聞いたとき、

お葬式で棺桶を持つ人が履く時に使う。

けがれるから、1回だけ履いて燃やされるもんだ。と言っていた。

確かに、おじいちゃんのお葬式の時、

白い服を着た親戚の人達が、棺桶を持ち、

ひーおばあちゃん達が編んだと思われるわらぞうりを履いていた。

ひーおばあちゃんの時代は、

当たり前のようにみんな自分で自分のわらぞうりをつくり

冬はかんじきをつくり、

それが、戦後のほんの数十年の間に

そんな文化も伝統も技術も全部消え去り、

大自然の中で力強く生きていく本来の力も消え去り、

今や靴なんて、ネットでポチッとするだけで手に入り・・・。

簡単に捨てられて、環境を汚染しゴミの山と化していく。

こうやって日本の多くの伝統が消えていくけど、

大事なものを忘れたくないなー。と思う。

ひーおばあちゃんが生きていた戦後、自給自足の時代から

まだほんの数十年しかたってなくて

子供の頃、そんなひーおばあちゃんと一緒に暮らしたことを思うと

時代の変わるスピードが恐ろしく早いなーと思う。

春と秋の彼岸の時期には、おばあさん達が御堂という小さな小屋に集まり

鈴の音を鳴らしながら御詠歌を歌っていたなぁ。

どこの家でも、朝と夜には般若心経を唱えて拝んでいたし。

自然を崇拝し、天気を祈ったり、自然の恵や生き物に感謝したり

地域の人達で協力して田植えや稲刈りをし、秋はお祭りをし、

そうやって生きてきたひーおばあちゃんの時代、いいなぁ。素敵だなぁ。

時代は変わっていくけど、ご先祖様たちの遺伝子が自分には流れているはずで、

そこにはご先祖さま達の経験や、祈りや、叶わなかった夢や、ふるさとの思い出や

色んな記憶が残っており

今生きる自分の命に託されているわけで。

そんなことを感じようとしながら、大切に過ごそうと思いました。

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